大澤資料プロジェクト

大澤壽人 煌きの軌跡

Hisato Osawa: Trajectory of His Brilliance

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大澤壽人 煌きの軌跡

大澤壽人 煌きの軌跡
Hisato Osawa:
Trajectory of His Brilliance

生涯・足跡Life and Career

English

大澤の生涯は4期に分けると理解しやすく、各期の作風も時勢の影響を受けながら変遷します。

プロローグPrologue

忘却と平成の復活劇

大澤壽人(おおさわ・ひさと、1906-53)は、戦前は欧米、戦中・戦後は日本で活躍した作曲家・指揮者である。日本が敗戦から復興中に急逝したこと、活動がラジオの時代であったこと、関西の私学出身であったことなどが重なり、欧米楽壇で認められた華麗なキャリアにも拘わらず、没後は半世紀以上も忘れられた幻の存在だった。

1999年、音楽評論家片山杜秀氏と神戸新聞藤本賢市記者によって、大澤家に保管されていた自筆譜が公になり、2003年以降《ピアノ協奏曲第三番 変イ長調 神風協奏曲》(1938年作曲)の復活演奏やCDリリース(当時、日本経済新聞記者だった池田卓夫氏の尽力)が続くと、戦前の作品とは思えぬ斬新な作風で一躍脚光を浴びた。こうして「平成の復活劇」が始まった。

留学前(1906年〜1929年)

出生から関西学院高等商業学部卒業まで

大澤は1906(明治39)年8月1日、愛媛県出身の両親のもとに、二男四女の長男として神戸で生まれた。父壽太郎は神戸製鋼所創業時からの技術者、母トミは信仰の篤いクリスチャンで、大澤は幼小の頃から兄弟と共に日曜学校に通った。音楽との最初の出会いは、オルガンと讃美歌である。

1920年、関西学院中学部に入学。グリークラブに属して山田耕筰の後輩となり、高等商業学部に進学する頃にはオーケストラ部にも入部。また学院オルガニストを務めるなど、音楽とキリスト教が密接に結びつく環境で成長した。その間、神戸居留の外国人、ピアニストのアレクサンドル・ ルーチンやペドロ・ ヴィラヴェルデに師事し、自ら神戸オラトリオ協会を設立して指揮者となり、関西学生音楽界のスターとして知られた。作曲家を志すきっかけは25年に初来日し、神戸に巡演したフランスのピアニスト、アンリ・ ジル=マルシェックスのリサイタルを母校の中央講堂で聴き、感銘を受けたことである。

1930年関西学院卒業の頃 兄弟と

▲1930年関西学院卒業の頃 兄弟と

ボストン・パリ留学期(1930〜1935年)

アメリカで花咲く才能と日本初のボストン響指揮

1930年、同院を卒業した大澤はアメリカに渡った。東京音楽学校(現在東京藝術大学)に本科作曲部が設置される前年という時期で、留学生の多くがヨーロッパを目指す中、大澤は宣教師の人脈によりボストン大学音楽学部に入学。日本人初の作曲専攻生となり、独学だった作曲法を初歩から始めた。当時のボストンは、創立50年を迎えたボストン交響楽団を擁する世界的な音楽先端都市であり、大澤はその定期演奏会会員となって「現代音楽」を浴びるように聴いた。並行して作曲の勉学では直ちに頭角を現し、2年目にはピアノ独奏曲《人形のうた変奏曲》がアメリカのラジオ局から放送されるほどだった。

1932年9月にはニューイングランド音楽院にも入学。フレデリック・ コンヴァースに師事した頃から才能が一挙に開花する。当時最先端の作曲法の一つ、「四分音」を用いた《チェロソナタ》をはじめとして、約半年で300枚以上の楽譜を書き上げる「怒涛の創作期」が訪れた。この時期に書かれた《小交響曲》は、33年6月12日のボストン大卒業式の晩に、日本人として初めてボストン響(ポップスオーケストラ)を指揮して披露した作品。ボストン大学卒業作品である《ピアノ協奏曲 イ短調》は日本最古のピアノ協奏曲の一つである。

卒業後の1934年には、アメリカに移住してきたアルノルト・シェーンベルクやアメリカ前衛派の作曲家たちの影響を受け、ボストン響常任指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキに献呈した《コントラバス協奏曲》やコンヴァースと評論家アルフレッド・マイヤーに献呈の《交響曲第一番》など、大作を次々に完成。大澤はボストン音楽界や前衛派のロジャー・セッションズが嘱望する「和魂のウルトラモダニスト」に成長を遂げた。前者は天才の本領が発揮される独創的な作品、後者は戦前の邦人作曲家による交響作品として、最大の規模を誇る。大澤はボストンの4年間で未完成作品を含めると約35曲、総譜総数にして約1000枚を書き上げて、ヨーロッパに向かった。

1933年6月ボストン交響楽団指揮に向かう

▲1933年6月ボストン交響楽団指揮に向かう

1934年4月《交響曲第一番》

▲1934年4月《交響曲第一番》

華麗なるパリ楽壇デビュー

1934年9月、経由地ロンドンでBBC響指揮者ワーウィック・ブレイスウェイトの知己を得て、翌月大澤はパリに到着。早速《交響曲第二番》に着手し、早くも年内に完成した。35年1月にはエコール・ノルマル音楽院に入学。大家ポール・デュカのクラスに入り、名教師ナディア・ブーランジェのプライベート・レッスンにも通い始めた。旺盛な創作力はさらに増し、作品への助言をもらおうと《ピアノ協奏曲第二番 ト短調》を僅か3カ月で書き上げた。

1935年11月8日には「大澤壽人 仏日交響音楽会」を開催し、パリ楽壇デビューを果たす。名門コンセール・パドゥルー管弦楽団を率い、サル・ガヴォーにおいて、作品発表と指揮を披露する演奏会を開いたのである。当日は、ジャック・イベールやフランス六人組のアルチュール・オネゲルやダリウス・ミヨー、加えてシャルル・ケックラン、アンリ・ビュッセル、アレクサンドル・グレチャニノフ、アレクサンドル・チェレプニンなど、20世紀前半の西洋音楽史を飾るきら星のような大作曲家たちが来場。大澤は《交響曲第二番》、ジル=マルシェックスの独奏で《ピアノ協奏曲第二番 ト短調》、マリア・クレンコの独唱で管弦楽伴奏歌曲《桜に寄す》を世界初演。ラヴェルやサン=サーンスのフランス作品も含め、すべてを指揮した。

結果は、作品も指揮も絶賛を博し、将来を祝福する演奏会評が大澤を「日本からのパリ楽派」に例えた。当時のパリは政治的な混乱によって自国を逃れた外国人、「パリ楽派」が活躍する華やかな楽壇で、上記のグレチャニノフやチェレプニンがそうである。また、世界中から音楽の徒が集まり、ピアノの原智恵子や作曲の平尾貴志男や池内友次郎らも留学中だった。この地でいち早く作品発表を行い、パリ楽派と称えられた功績は「戦前の日本洋楽史における快挙」であり、大澤は日本人として稀な、輝かしいキャリアを築いたのである。

1935年11月8日 パリ公演プログラム表紙

▲1935年11月8日 パリ公演プログラム表紙

1935年 パリデビュー時のソリスト クレンコと

▲1935年 パリデビュー時のソリスト クレンコと

帰国から終戦まで(1936年〜1945年8月)

帰国から戦中の日々

1936年2月、足かけ6年に及ぶ留学を終えて帰国。5月と6月に東京と大阪で開催した大澤の「帰朝演奏会」は、凱旋的な意味合いをもつはずだった。だが、欧米と母国の落差は想像を超えるものだった。「世界的レベルの作曲家」という評価は通用せず、時局はあまりにも暗かった。先鋭の作風を成長半ばの日本楽壇は理解できず、帰国直後に起きた二-二六事件によって軍部の支配力が強大化する時勢だったのである。

4月から神戸女学院の教壇に立った1937年は、7月に盧溝橋事件勃発。日中戦争下で発表された《ピアノ協奏曲第三番 神風協奏曲》は愛国的でないと非難され、その後は戦局の影響で、演奏会での作品発表が段々困難になった。厳しい時代を迎えるが、このことは逆に、大澤を新しいジャンルの開拓へと向かわせた。JOBKラジオ(現在NHK大阪放送局)のスタジオや宝塚や松竹歌劇団の舞台、映画音楽の分野などに才能を注ぎ込み、手がけた放送作品は約130、舞台用音楽は約20、映画音楽は約40におよぶ。

1940年5月「紀元二千六百年奉頌演奏会」では、日本武尊と国を称える大交声曲《海の夜明け》、出征兵士の母の想いを伝える《つばめに託して母の歌える》を発表。6月ラジオではモーリス・ラヴェルが戦没の友人に捧げた《クープランの墓》の指揮本邦初演を行うなど、戦中の音楽活動には激動の時代が直接に反映している。私生活では12月に宝塚歌劇団に在籍する15歳年下の奥田澄子(月瀬梅香つきがせうめか)と結婚した。

1936年5月東京 帰朝演奏会

▲1936年5月東京 帰朝演奏会
(大澤指揮/新交響楽団、ピアノ独奏レオ・シロタ)

神戸女学院学生と

▲神戸女学院学生と

終戦から晩年まで(1945年9月〜1953年10月)

戦後の大活躍

戦後は「音楽による復興」の意識を強く持ち、上質で親しみやすい「中間層の音楽」の普及を目指した。ジャズ風の《ペガサス狂詩曲》(1949年)や《トランペット協奏曲》(1950年)を作曲して、BKの音楽番組「シルバータイム」から放送。「日本シンフォネットオーケストラ」などポップス系3団体を設立して専属指揮者となり、詩人・画家・舞踊家・映画監督たちと共同制作の輪を拡げた。こうした活動を続けながら、欧米で認められたオーケストレーションの技術をさらに磨き、作曲の世界に匹敵する編曲の世界を築いた。宝塚スター越路吹雪のための《ビギン・ザ・ビギン》編曲(1950年)はその一例である。

1951年は、NHKに次いで民間放送が始まる時期だった。11月開局のABC朝日放送には、準備段階から携わった。52年9月からは2つのレギュラー番組、「ABCホームソング」と「ABCシンフォネットアワー」を毎週担当。企画・作曲・編曲・指揮のすべてを引き受け、他の仕事も控えることなく続ける超人的な活動を展開した。同年10月には東大寺の法要にちなむ《大佛千二百年祝典譜》を作曲し、文部省芸術祭参加作品音楽賞と民間放送連盟音楽賞をダブル受賞。11月にはABC開局1周年のための《電波へのハレルヤ》が続いた。 1953年になると、8月に西宮球場に2万人以上の聴衆を集めた「たそがれコンサート」を指揮、9月にジャン・カルロ・メノッティのオペラ《電話》を訳詞・編曲・指揮して本邦初演、10月に脚本から作曲・指揮まですべてを手がけた放送オペラ《邯鄲》を発表。輝くキャリアを持つ時代の寵児は、関西文化圏の中心で多忙を極めていた。

1950年 自宅仕事場で

▲1950年 自宅仕事場で

寵児の急逝

しかし、そんな大活躍の日々は突然に終わりを告げた。欧米での再活動を考えていた矢先の1953年(昭和28)10月28日、大澤は過労のため出先で倒れ、搬送先の病院で帰らぬ人となる。関西楽壇はリーダーの喪失を嘆き、追悼記事や番組、追悼演奏会が続いた。

エピローグEpilogue

未来への遺産

没後半世紀以上を経て、冒頭に述べた劇的な平成の復活劇が起こった。大澤が遺した作品は作曲・編曲合わせ、1000に近い。留学地でのウルトラモダンな演奏会用作品から戦中・戦後の映画音楽やラジオ歌謡まで、手がけたジャンルは多岐にわたり、その音楽は現在の私たちをも動かす強い生命力を保つ。

日本作曲界の黎明期から戦後の混乱期まで、47年を駆け抜けた大澤の生涯は、流星のような煌きの軌跡を描いている。